2018年06月10日

何もかもはできなくても、何かはきっとできる

名誉牧師 藤波勝正

先日、長い間かかわってきた援助団体ワールドビジョン・ジャパンの創立30周年記念の集まりに参加してきました。そこには、日本で大きな働きをしている牧師や教会の代表者、一流企業の社長、キリスト教主義の大学の学長、高校の校長など、ワールドビジョンの働きにかかわっている大勢の支援者が集まっていました。

ワールドビジョンの働きは、日本の教会のリーダーの一人であったラジオ牧師羽鳥明師と数人の牧師たち、キリスト者である山崎製パンの飯島延浩社長らによって始められました。今では、多くの教会と信徒が、多くの企業が全社や社員グループで、大学、高校、中学、小学校、幼稚園、保育園などがクラスやグループで、また一般の方々など、5万人弱の人々が支援活動に協力しています。

ワールドビジョンの創設者はボブ・ピアスという宣教師です。ピアス師は第2次世界大戦後の混乱した中国で、「すべての人々に“何もかも”はできなくとも、誰かに、“何か”はきっとできる」ということをモットーに一人の子供の救援活動を始めました。そして、アメリカでワールドビジョンを創設し、日本では1960年から救援活動を行ないました。ピアス師は、子供を救うためには家族や地域社会が変えられなければならないと考え、地域開発プログラムによって多くの国に援助活動を行ない、現在は100か国で活動がなされています。今のワールドビジョンのモットーは「何もかもはできないが、何かがきっとできる」です。

私が属しているキリスト兄弟団は、23年間から約7年間、バングラデシュのバコイ村で行なわれていた地域開発のためにチャイルドスポンサーとして協力し、約三百人の子供たちを支援しました。私は教団を代表してバコイ村を幾度もお訪ねしましたが、子供たちが変わり、家族が変わり、地域社会が変わっていく姿を見て、地域開発の大切さを実感しました。

バコイ村での働きの20年記念に訪問したときには、この働きを通して初等教育を受け、その後にさまざまな教育や訓練を受けて生きがいを持っている青年たちに出会いました。彼らは異口同音に、初等教育を受けられたから今があると感謝していました。今ではバコイ村の方がたは、困難な中にいる近隣の村々や人々のために働いています。

小田原教会も、こひつじ学園も、私も、そのバコイ村の人々とは今でも交流が続いており、クリスマスなどの機会には献金をお送りしています。バコイ村には自然災害が多く、たびたび災害のようすが伝えられると共に祈りの要請が届きます。私たちだけで彼らの必要を満たすことは当然不可能ですが、「何もかもはできないが、何かがきっとできる」ということばを思いつつ、小さな支援を続けてきました。

聖書に、自分の弱さを知り、不平を言ったギデオンという大変弱い青年のことが記されています。全能は神はこのギデオンにイスラエルを外国の支配から救うという大きな働きを与え、「行け、あなたのその力で。あなたはイスラエルをミディアン人の手から救うのだ。わたしがあなたを遣わすのではないか」(士師6:14)と語られました。神は、ギデオンには小さなことしかできないのを知りつつ、「あなたのその力で行きなさい。あなたにできることをしなさい」とお命じになったのです。神は、神に従ったギデオンを神の力で成長させ、ギデオンは多くの人々の助けを受けて、不思議な方法でイスラエルを救いました。

何かをしたくないと思うとき、不可能だと思うとき、わたしたちはできない理由を探して、自分を納得させて実行しません。全能の神は、「わたしはあなたとともにいる。あなたのその力で、たとえ小さくてもあなたのその力で始めなさい」と励まし、助け、力を与えてくださいます。
posted by pastor at 00:00| 教会通信「はぴねす」

2018年05月24日

常呂のカーリングチーム

名誉牧師 藤波勝正

2月に行なわれた平昌オリンピックの余韻がまだ続いているような昨今です。メダリストたちが出身地でのパレードで祝福され、表彰され、メダリストたちも多くの人々に感謝していました。

今回のオリンピックでは、北海道北見市常呂町の出身者で編成されていたカーリング選手たちを特別な思いで見ていました。今は北見市に編入されていますが、以前は常呂町と言っていました。オホーツク海沿岸にあり、冬に訪れますと、大変冷たい風、氷、雪で冬の道東の厳しい自然を体験できる漁村でした。その町が日本のカーリング定着の中心地となりました。1988年には日本初のカーリング専用リンクができ、カーリングの聖地と呼ばれるようになっていきます。

常呂町には私たちと同じ教団の常呂教会という小さいですが活発な教会があり、幾度もお訪ねしました。毎週の礼拝のほか、日曜学校には近所の子供たちが大勢集まっていました。もしかしたら、オリンピックで活躍している選手たちの中には、日曜学校に来たことのある人もいるかもしれないと思いながら、テレビを見ていました。

今回のオリンピックでは、選手たちの「もぐもぐタイム」とし合いの中で話される「そだねー」ということばに注目が集まりましたが、特に「そだねー」ということばに興味が引かれました。「そだねー」は標準語では「そうだねえ」ですが、同意や確認を意味しています。選手たちが試合の作戦を練る大切な時に、相手のことばに対して同意や確認を表わして「そだねー」と応じ、話し合っていることに感銘を覚えたのです。

だれかに何かを言われたとき、「そうだねえ」というような同意や確認、または同情を表わすことばを口にするのではなく、相手を思う愛と善意から出てはいるのですが、別の考えを話して説得したり励ましたりすることが多いのではないでしょうか。まずは苦しみや悲しみやつらさの現実を理解して同情することで、同じ立場に立つことができ、真の会話が成り立つのではないかと思います。

聖書に「私たちの大祭司(イエス・キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです」(ヘブル4:15)ということばがあります。そして、そのことばに続いて「ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」(ヘブル4:16)という招きのことばが続いています。イエスが私たちと同じ立場に立ち、私たちの苦しみ、悲しみ、つらさを理解していてくださいます。ですから、私たちはその愛のイエスに近づいて、真の助けをいただくことができます。力強く歩み始めることができるのです。
posted by pastor at 09:28| 教会通信「はぴねす」

2018年04月08日

記念日を大切にする愛

名誉牧師 藤波勝正

多くの人々は、誕生日、結婚記念日、愛する者の命日などを大切にしています。私の母は、子供たちと自分の誕生日、私が3歳の時に主のもとに召された夫の命日を大切にしていました。その日には、イエスによって守られてきたことを感謝し、これからの人生が守られるように祈りました。そのようなとき、自分には記憶のない亡き父の話を聞くのが楽しみでした。記念日を大切にすることは、互いを尊重し、過去の恵みを感謝し、励まし合うことです。

多くの教会で大切にしている記念日は、主イエスのご降誕を祝うクリスマス、そして、主イエスが十字架で死んでよみがえったことを記念する日です。主イエスがお生まれになった日がいつなのかは聖書に記されていませんので、伝統的に12月25日を中心に感謝のときを持ちます。主イエスが十字架にかかった日と復活された日は聖書に記されていますが、当時のイスラエルは太陰暦でしたので、現在の太陽暦に当てはめると毎年日付が変わります。今年のイースター(よみがえりの日)は4月1日でした。

今から約2000年前のよみがえりの日のできごとをご紹介しましょう。イエスが当時の指導者たちが神の教えから離れていると指摘したため、指導者たちはイエスを殺そうとしていました。イエスは、ご自分が神の子であること、指導者たちから多くの苦しみを受けて殺され、3日目によみがえることを弟子たちに話されました。イエスは十字架につく直前に12人の弟子たちと夕食をとりましたが、それが最後の晩餐の時であることをご存じでした。その時イエスは、汚い弟子たちの足を洗うという奴隷の仕事をし、互いに愛し合うことの大切さを教えました。

その夜、さまざまなことが起こり、イエスはユダヤ人たちに捕らえられ、金曜日の明け方にかけて何度も不正な裁判を受けました。最後には、十字架につけろと言う民衆の声に負けたローマ総督ピラトによって十字架刑が決まりました。

何の罪も犯していない神の子イエスが、ローマの兵士たちによって十字架につけられました。そのようなとき、普通なら自分の正当性を主張し、恨み言を言いたくなるものですが、イエスは反対に「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」と父なる神に祈られました(ルカ23:34)。

多くの場合、十字架刑に処せられた人々は一昼夜苦しむと言われますが、イエスは6時間という短い時間で息を引き取り、岩に掘られた横穴式の墓に葬られました。指導者たちは、イエスが3日目によみがえると言っていたことを思い出し、弟子たちがイエスの遺体を盗んでイエスがよみがえったと言いふらすのではないかと恐れて、イエスの墓に兵士たちを遣わしました。

兵士たちが寝ずの番をしていた3日目、つまり日曜日の早朝、イエスはよみがえり、ご自分が神の子であることをお示しになりました。驚いた兵士たちが報告したところ、金を渡され、「弟子たちが盗んだ」と言うように命じられました。そのため、エルサレムではイエスの体を弟子たちが盗んだと広く信じられるようになりました。

イエスのよみがえりをだれよりも信じられなかったのが弟子たちでした。弟子たちは、よみがえりのイエスに何度も会い、話し、そして、イエスが神であることを知り、信仰が与えられました。弟子たちは一つにされ、よみがえりの証人になりました。

その後に、イエスが神であると信じる教会が生まれ、今日に至りました。今でも、イエスを救い主と信じる私たちは、イースターを一番大切な記念日として、教会で礼拝をささげ、毎週日曜日には、よみがえりの主に愛と信仰と真実を表わす礼拝をささげています。
posted by pastor at 00:00| 教会通信「はぴねす」